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天運教会-ヘブンズフォーチュンチャーチ

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歌と人生

「赤とんぼ」の歌詞に「山の畑の桑の実を 小かごに摘んだはまぼろしか」という一節がありますが、今の季節は川の近くや公園などに、桑の実がたくさんなっていますね。

この桑の実、甘酸っぱくてほんとに美味しいのですが、ランニング中などに採って食べると、疲れた体が一気に癒されます。

ドラゴンボールに出てくる「仙豆」のような力を持っているんです笑

さて、コロナウイルス感染対策の期間、子供たちと身近な自然に出て過ごす時間が増えたのですが、ふとした時に、口から日本の愛唱歌が出てくることがあります。

子供たちと川釣りをしているとき、夕方になってあたりが暗くなってきて「そろそろ帰るぞ〜」と言いながら、「ふるさと」の歌が浮かんできました。「うさぎ追いしかの山 小ぶな釣りしかの川」という一節です。

少し前の菜の花がきれいだった時、ランニングをしながらきれいな菜の花畑を見つけて立ち止まったとき、「菜の花畑に 入り日薄れ 見渡す山の端 霞ふかし」という「おぼろづきよ」の歌が浮かんできました。

大人になって改めて思うのは、この「おぼろづきよ」、なんとも詩的で素敵な歌詞ですよね。

この国が持つ自然の美しさや生活文化などが、日本の愛唱歌、それぞれの曲に織り込まれていて、大人になった今でもつい、口ずさんでしまいます。

これからも日本の愛唱歌が長く歌われ、そこに出てくる自然や大切な文化が守られていくことを、願ってやみません。

緊急事態宣言が5月25日に解除され、少しずつですが、街が活気を取り戻してきたような感じがします。

もちろん、まだまだ気をつけなければならない期間は続きますが、完全には戻らなくても、少しずつでも日常生活が取り戻されていくことを願っています。

少し前のニュースで、名曲「上を向いて歩こう」を多くの人達で一緒に歌う動画を有名演出家の方が作成し、SNSで投稿したということを知り、観てみましたが、非常に感動しました。

新型コロナウイルスと戦う医療従事者の方々や、力を失っている人たちに向けて少しでも希望を感じてもらうため行なったところ、多くの方々が参加して行われたということでした。

日本、世界が大変な期間を過ごしたわけですが、この期間にはどんな歌が歌われたんでしょうか。

どんな歌とともに、このときの記憶は刻まれていくのでしょうか。

歌は、私達に大きな力をくれ、私たちと寄り添ってくれます。

私が教会に通うようになって嬉しかったことの1つが、素敵な賛美歌にたくさん出会えたこと、賛美歌をたくさん歌うようになったことです。

「賛美歌は曲のついた祈り」なんていう言葉もありますが、神様に感謝や真心を伝えるもので、なんと言っても歌詞が素晴らしいものが多いです。

信仰を持ってからそれなりに長くなりましたが、人生の局面局面を振り返ると、その時期たくさん歌った賛美歌があり、その歌を歌うと当時の情景や感情が蘇ってきて、後から振り返ってみてわかる「神様の助け」をハッキリと確認出来ます。

もちろん、人や環境を通して神様は助けて下さいましたが、何よりも自分の心を守り、心に働きかけて下さったことが一番大きな助けでした。

つらい中でも心が折れなかったこと、希望を見いだせない時に希望を持てるようにして下さったこと、不平不満が出そうなときに感謝する考えをくれたこと・・・

賛美歌を歌うと、考えや心が、自然と良い方に変わっていきました。

歌や芸術は、神様が人間に下さったプレゼントであり、祝福だと、私の恩師が教えてくれました。

歌や音楽がなかったら。

踊りやダンスがなかったら。

絵やデザインがなかったら。

スポーツがなかったら。

人生に、歌や芸術は必須です。

神様が下さった芸術というプレゼント、その価値をわかって、貴重に使って、豊かで味わい深い人生を歩んでいきたいものです。

盆栽とヘブンズ・フォーチュン・チャーチ

皆さんは、「盆栽」というと、どんなイメージをお持ちですか?

サザエさんに出てくる波平さんに象徴するように、年配の男性が好む趣味とイメージする方も多いかもしれません。

しかし、近年ではお花を使ったものや、オリーブなど海外の木を使ったもの、実を楽しむ盆栽も登場し、若い女性や筋肉マッチョのスポーツ選手など、幅広い人たちに人気のようです。

海外でも日本の盆栽はものすごい人気で、日本の盆栽園に海外から買い付けに来る方も多かったり、海外に支店を出す盆栽園もあると聞いたことがあります。

そう、そして、私達の教会にも、盆栽があるんです!

「え?キリスト教の教会に、盆栽!?」「『チャーチ』っていうんだから、オリーブとかの作品?」と思われるかもしれませんが、ちょっとまつ、た!・・・そう、じつは素敵な「松」の作品なのです。

松といえば、「松竹梅」というように、縁起の良い、品のある木として、日本ではとても愛されていますよね。 

古くは万葉の時代(1300年ほど前の飛鳥時代)から親しまれているらしく、語源には諸説あるそうですが、漢字の当て字で「待つ」から来ているという説が有力だそうです。

「神の降臨を『待つ』」というところから来ていて、このことから、神聖な木であることを意味するのだそうです。

この「松」、冬でも青々とした葉を付ける常緑樹であるため、不老長寿の象徴ともされています。

教会ではクリスマスに「もみの木」を飾りますが、これも常緑樹であり、変わらない信仰や愛の象徴でもあります。

「松」と「もみの木」。西洋と東洋で、身近な植物や生活習慣が違うという背景はあるとしても、神様を思う心や、神様が造られた万物を通して何かを伝えようとする心は同じなのですね。

意味としても、教会に松の木があるのはしっくりきますが、実際に松の木を置くだけでグッと引き締まるといいますか、松の良い香りのように神聖な雰囲気が漂います。

盆栽を置く意味として、神様が造られた大自然の世界を、私達の日常の部屋に持ってくるということに意味があるそうです。

神様が造られた壮大で神秘的な自然、人間の力を超えた圧倒的な自然を見ると、大きな感動を受けますよね。

盆栽は小さな1本の木ですが、見る時にはそこに凝縮された大自然をイメージして見たり、神様の大きな自然の中で生きる小さな自分に重ね合わせて見てみると、1本の木を通してまったく違うものが感じられます。

私達の教会にある松の作品は、樹齢150年の赤松。長野の山から採取したと推測されています。

普通の木ですと「年輪」と言って、木の太さでその木が生きてきた歳月の重みが出てくるのですが、盆栽は幹が太りづらい性質がありますから、何層にも重なる幹の肌の様子がその木の経てきた歳月を表し、特に赤松は木肌に赤みが帯びているほど古木の象徴で美しいとされています。

ちなみに赤松は女性の松、黒松は男性の松とも言われるそうなのですが、この作品は全体の形象が女性が手を広げたような枝ぶりをしていて、まさに美しい女性のような姿だと言えるのではないでしょうか。

そして、私がイチオシの最大の魅力が、なんと言っても「根張り」です。

風雪に耐え、山という岩石の多い厳しい環境でもしっかりと根を張って生きてきた生命力が、根っこの力強さに現れています。

私の師事する牧師先生も、松や木の作品をたくさん育てる園芸の分野でも専門家なんですが、木の根っこは、人間で言うならば精神や考えと同じだとおっしゃいました。

木がしっかりと根を張ってこそ倒れずに立つように、人間も精神や思想がしっかりしていなければならない、ということです。

私も教会にあるこの松の木を見ると、「困難なことがあっても精神をしっかりしなさい」「あなたも粘りが大事だ」と語りかけてくれている気がするのです。

この素敵な松の作品なんですが、とても繊細です。

私達素人だけでは管理と維持が難しく、現在はこの盆栽を管理して下さっている、埼玉の有名な盆栽園さんで、さらに素敵になるためにお化粧をして頂いています。

木も頑張って装っていますから、私たちももう少し自分を素敵に作って、また会える日を待ちたいと思います。

ちなみにこの盆栽園さんがある街は、本当に地名が「盆栽町」というんですが、日本の有名な盆栽園がたくさんあって、実際にどの家にも盆栽がありました。

この街の小学校では、1年生の時に1本の盆栽をつくり、6年間育てて卒業するときに自分の盆栽の作品と一緒に卒業するんだそうです。

木を育てることによって、命の大切さや自然の尊さを教えているんだそうです。

とても素敵な教育だなと感動しました。

余談になりますが、私が生まれ育った場所に1本の「グミの木」が生えていたのですが、両親いわく、私が生まれた時に生えてきた「同じ年」の木だったんだそうです。

両親に「あなたの木」と言われていたこともありますが、初夏にはグミの実をたくさん食べたり、木登りをしたり、思い出が沢山あって、同い年のそのグミの木には特別な愛着がありました。

その後我が家は引っ越し、その地域が開発されてグミの木は今はなくなってしまいましたが、今でもグミの木を見るとその木を思い出します。

木と共に生きる、というのは素敵なことですよね。

私は、木だけではなく、そこに神様がいらっしゃるからじゃないかな、と思います。

木はいつかは切られ、枯れ、なくなりますが、思い出と経緯は消えません。

大きな人物が愛した木、戦争や災害から生き残った木、村中の人に愛されて多くの子供達が登った木・・・。

盆栽や木を見る時に大事なのは、その木の「ヒストリー」を知ることだと聞きました。

木にも経緯があるように、人には様々な経緯があります。

人が自分の力や努力で生きてきたと思っても、木を人が育てるように、神様が人や環境を通して私達に水や肥料をくれて育ててくださり、全ての経緯に神様が共にして下さっていました。

見える盆栽を通して、見えない大自然を見ることが重要なように、見える私達の人生を通して、見えない大きな神様を見る努力が必要ではないでしょうか。

盆栽も、ただ木としてみると何も感じられませんが、盆栽を通して大自然を創造され、私達に命を下さった神様を考えると、まるで生きている人かのように、木を通して神様がその時その時語りかけてくれる言葉があります。

盆栽の作品も同じものはなく、1本1本が貴重なように、人間も個性通りに1人1人が本当に貴重です。

木も持って生まれたものもありますが、装ってこそ作品の木となるように、私達も価値を分かって装ってこそ、作品となります。

木も、自分も、人の命の貴重さを分かって、大切にし、素敵に作っていく私達になっていきたいと思います。

恩師の日

母の日や父の日など、1年の中にはいろんな日がありますが、お隣の国、韓国では5月15日は「恩師の日」なのだそうです。

儒教思想が根付いていて、年上の人や師と呼ぶ人への恩を大切にする国柄もあるかと思いますが、日本にはあまり馴染みのない習慣ですが、素敵な文化だなと思います。

そもそも「恩師」と呼べる人と出会えることは、とても幸せなことだと思います。

学校の先生をはじめ、学問、スポーツの技術、ピアノの演奏、絵の描き方、仕事の業務、さまざまなことを教えてくれる人がいて、現在の私達がいます。

しかし、知識やテクニックだけではなく、大事な「人生」や「生き方」を教えてくれる人には、なかなか出会えるものではありません。

私も人生の中で、生き方を教えてもらった方がやはり何人かいますが、その方々から学んだことは、単なる処世術のようなものだけではなく、「ああ、このように生きるべきなのか」と感じるような深いものでした。

その方々に共通していたことは、言葉ではなく「行ない」で見せてくれたことです。そして、行ないの中で発せられる「一言」が深く心に刻まれるのです。

私が大学生の頃、自分の人生の道が分からなくなっていた時、真理を探して自己啓発本を読んだり、飛び込みで近くの教会に幾つか行ったりしてみましたが、これと言って答えとなる話もありませんでした。

そんな中で、恩師となる牧師先生と出会い、初めて説教を聞きにいきましたが、そのときの説教のタイトルがこれでした。「将来を考えて生きなさい」。

何度も聞いてきた話でしたし、いつも考えていたことなので、新鮮味は全く無かったのですが、耳を傾けて聞いてみると自分が考えていた『将来』とは全然違う話をされていました。

もう20年近く前のことですから、詳細は覚えていないのですが、話の内容は、

「人間はいつか死ぬ。そのときには終わりではなく、続く存在があって、自分が行なった通りの次元で次の世界に行き、生きるようになるからしっかりと人生を生きなければならない。」

というようなものでした。

2~3年先、遠くても10年後くらいの視野で生きていた私にとって、自分の人生の終わりの後の話を詳細に、そして理に適った話で納得するように教えて下さった話に衝撃を受けたことを記憶しています。

その牧師先生から続けて学ぶようになりましたが、いつも彼がおっしゃっていたことは、

「人類の真の恩師は、ただ創造主神様だ。そして、神様を正確に教えてくれたイエス様だ。人間は各分野別に教える先生に過ぎない。」

ということでした。

「万物と世の中」よりも先に教えるべきことは、「人生」だ。

この「人生の問題」と「永遠な世界」については、学校で100年間学んでも学べない。

人生を学ぶためには、まず天地と人間を創造なさった神様のことを学ばなければならず、そして人間について学ばなければならない。

「自分の人生」も知らないで、物質と万物、世の中を学ぶから、無知によって自分自身も、万物も世の中も治めることが出来ないのだ。

真の恩師ならば、この肉体を持って生きる人生の目的を教え、地上で生きる間に自分が行なって、祝福を受けられるようにしてあげ、永遠の世界でも天国に行けるようにしてあげなければならない。

このようなことを、私は教会で学んできました。

その時から20年。体重は確実に増加し、ついつい余計な一言が口から出るような年齢になりましたが、今も将来のことを学び考えながら、現実の人生を全力で生きられるようにして下さった神様に心から感謝しています。

弟子は師を超えることは出来ません。一生かけて、神様に挑戦していく人生、神様に近づいていく人生、本当に幸せなものだと感じています。

神様のことを知れば知るほど、同時に素晴らしいものを発見していきます。

2つとない絶景の山々。

広大で人間の悩みなど全部包み込んでくれるような海。

体内時計でもあるかのように季節になると一斉に咲き始める花々。

小さくても精巧に造られている虫たち。

正確に移り変わり、来ては、また去っていく季節や時。

自分が時に合わせて人に出会わせてもらい、いかに愛され守られてきたのか・・・。

神様が造られたものは、すべて美しいです。

真の恩師、神様に近づいていく人生にはきりがありません。

大きな人生を下さったことに感謝し、いつ終わっても「我が人生に一片の悔い無し」と言えるような生き方をしていきたいものです。

母の日とカーネーション

明日は母の日ですね。

私たちヘブンズ・フォーチュン・チャーチでも、明日オンラインで母の日のお祝いをします。

ちなみに私は毎年、お気に入りの花屋さんから母と祖母に花を送るのですが、今年は行けないのでオンラインショップで送ってみました。

今の状況もあるのか、インターネット上にはものすごい数の、母の日関連商品が出てきました。

母の日といえばカーネーションを送るというのが定番になっていますが、この習慣はどこから来たのでしょうか?

調べてみると、20世紀初頭のアメリカ、1人の女性の行動から始まった、とあります。

アンナ・ジャービスという女性が、自分が尊敬し愛していた母親が亡くなってから2年後、教会で行なった母親の追悼会の際、母親が生前好きだったカーネーションの花を教会の祭壇に捧げ、参加者にも配ったそうです。

このアンナの母、アン・ジャービスは敬虔なクリスチャンで、南北戦争当時、負傷兵の衛生状態を改善するボランティア団体を立ち上げ、怪我や病気で苦しむ兵士たちを敵も味方も関係なく支えた人だったそうです。

戦争後も平和活動や子供たちへの教育支援、軍人たちのケアなどの社会事業活動に一生を捧げた、と言われています。

偉大な母と、その母を想う娘アンナの行ないが人々に感銘を与え、徐々に広がって「母親のための祝日」が設けられるようになり、その際にカーネーションを送るということが習慣になっていったそうです。

名前も知らなかった1人の女性が始めた行動が、海を越えて日本の私達の習慣を作っていたことを知り、びっくりしました。

アンナのお母さんの生き方が偉大だったこともあると思いますが、母を思う娘の真実な行動が、人々の共感を呼んだのでしょう。

人の心が動くと行動が起こり、それが広く受け入れられ支持され、継続されていくと文化や習慣が作られていきます。

今日は母の日ということで1つの事例を紹介しましたが、私達が当たり前のように行なっていることも、このように小さく始まり、それを支持した人たちが広めていって、文化や習慣となっていることがほとんどではないでしょうか。

今の時代、核家族化が進んだり、近所付き合いなど人と人の交流が減ったとも言われていました。

しかし一方で、SNSなどインターネット上では地域やこれまで交流してきた範囲を越えて、人と人の繋がりが増えてきています。

これからの時代は、こういったところからも多くの習慣や文化が作られていくのでしょう。

今は家にいることが多く、外に自由に出られない状況だからこそ、あらためてインターネットがもたらす恩恵や私達に与える影響がいかに大きいのかを、実感するようになりました。

ナイフもダイナマイトも使い方次第であるように、ものは使い方次第です。

インターネットやSNSも上手く使い、賢く付き合って、後世に残すべき良い文化や習慣を作っていきたいものです。

母の日。

私も親の立場になってみて、親が自分にしてくれたことがいかに大きかったのか、少しだけ知るようになりました。

親の心子知らず、と言いますが、まだまだ親の心、愛には及びません。親というのはいつになっても大きな存在です。

そして親にもまた親があり、私たち人類は大きな大きな繋がりの中で発展してきました。

言葉にできない大きな苦労や犠牲があって、私たちの命があります。

神様が長い長い歳月をかけて天地万物を創造され、私たちは神様が作られたこの星で生かされています。

酸素がなければ、水がなければ、太陽がなければ、オゾン層がなければ…。

私たちは偉そうな顔をして地上を闊歩していますが、神様が下さった恵の中で生かされているのです。

母の日に送る、カーネーション。

子供が母親から受けた愛や犠牲に比べたら、本当に小さなお返しかもしれませんが、母親はとても高価で大きなものをもらったかのように喜んでくれます。

私は父親ですが、子供たちが妻にプレゼントを渡すのを見ると、自分がもらうこと以上に嬉しいものです。

世界中のお母さん、お父さん、子供たちに喜びが満ちる母な日になりますように。

そして、神様に、人類からたくさんの感謝のカーネーションが届く日になることを願います。

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